福寿園「宇治茶」—一服に宿る、京都の伝統と品格。
京都・宇治の老舗「福寿園」は、茶の湯文化を支えてきた日本を代表する茶舗のひとつである。創業は寛政二年(一七九〇年)。二百三十年以上にわたって、茶の栽培・製茶・販売を一貫して行い、宮中献上の茶師としても知られてきた。抹茶、煎茶、玉露、ほうじ茶——その香気と味わいは、京都の四季や人々の暮らしに寄り添いながら育まれてきた。皇室ゆかりの格式と、生活に馴染む親しみやすさ。その両方を併せ持つ福寿園の茶は、まさに「日本の伝統」と「老舗ブランド」の象徴である。

出典:福寿園
江戸から令和へ——茶の道を歩んだ二百年の物語。
福寿園の歴史は、江戸時代後期、商都・京都が文化の中心として成熟した時代に始まる。初代・伊右衛門が「茶は人を福にし寿を延ぶ」という願いを込めて屋号を「福寿園」と定めたのがその起こりだ。宇治の地は室町期から茶の銘産地として名を馳せており、将軍足利義満が宇治七名園を選定して以来、武家や公家に愛された。江戸中期、煎茶道が文人趣味として広がり、茶はもはや貴族の嗜みを超えて庶民の生活にも根づく。そんな時代の流れの中で、福寿園は「品質を極めた茶」を庶民に届けることに使命を見出した。幕末、混乱の時代にも宇治の茶畑を守り、明治維新後は輸出の道を切り拓く。緑茶がヨーロッパやアメリカに渡り、“Japanese Tea”として評判を得たのは、福寿園をはじめとする京都の茶舗の努力の賜物だった。明治天皇の行幸に際しては、福寿園の茶が献上品に選ばれ、以後も皇室御用達として名を連ねる。大正・昭和には、茶の近代化とともに製法の改良が進み、蒸し製煎茶や玉露の精製技術が確立。福寿園は機械化を進めながらも、人の手による選別や火入れの勘を守り続けた。戦中戦後、物資が乏しい中でも「本物の茶を絶やさぬ」として職人が畑を耕し続けた逸話は、京都の茶人たちの間で語り草になっている。高度成長期には、京都駅ビルに茶寮を設け、茶の文化を体験できる空間として観光客や外国人に人気を博した。平成に入ると、環境保全型農業や有機栽培をいち早く導入し、持続可能な茶づくりに取り組む。二十一世紀、福寿園は「日本の茶文化を、世界の日常へ」というビジョンを掲げ、茶葉の輸出、文化施設の運営、芸術とのコラボレーションを展開。創業二百年以上の老舗でありながら、常に時代の先端で“茶の未来”を耕し続けている。皇室ゆかりの格式と革新の精神を両立させる姿勢こそ、福寿園が今日も人々に愛される理由である。

出典:福寿園

出典:福寿園
宇治の風土が生む、香・甘・渋の調和。
宇治の茶畑は、朝霧に包まれ、昼は日差しが柔らかく、夜は冷える。昼夜の寒暖差が大きいことで、茶葉に旨味成分テアニンが蓄えられる。福寿園はこの土地の気候を生かし、覆下園や玉露畑を丁寧に管理。摘み取った新芽は蒸気で止め、揉みながら乾燥させることで香りを閉じ込める。さらに火入れによって香ばしさを引き出す。煎茶は清々しく、玉露はふくよかで、抹茶は深くまろやかに。香り・甘味・渋味の三位一体が、福寿園の宇治茶を支える骨格である。

出典:福寿園

出典:福寿園
茶の湯から日常へ——一服の作法とデザイン。
福寿園は「茶を点てる」という日本文化を、現代の生活に翻訳する。器の設え、湯の温度、茶葉の量。ひとつひとつの動作を大切にするその思想は、抹茶ラテやティーバッグといった手軽な形にも息づいている。パッケージには和紙や金箔、季節の意匠を用い、贈り物としても上質。手に取った瞬間に“京都”を感じる洗練されたデザインは、まさに「見て味わう茶」である。

出典:福寿園

出典:福寿園
皇室ゆかりの茶——品位と祈りの味。
宮中行事や祝典に供される茶は、単なる飲み物ではなく「清め」と「祈り」の象徴でもある。福寿園は代々、皇室や寺社への献上茶を担ってきた。格式を重んじる一方で、誰の日常にも穏やかに寄り添う味わいを追求する。茶筒を開けた瞬間の香り、湯を注ぐ音、湯気に漂う淡い緑の光——それらはすべて、心を鎮める小さな儀式。慌ただしい現代においてこそ、福寿園の茶は「時間を整える道具」としての意味を持ち続けている。

出典:福寿園
未来へ続く「茶の文化」——伝統を次代に手渡す。
福寿園は単なる茶舗ではない。京都文化を世界に伝える“文化企業”でもある。茶師の育成、茶の学び舎「宇治茶工房」、サステナブル農法への挑戦、そしてAIやデジタルを活かしたブレンド開発。古の精神を核に、現代の技術で茶の可能性を拡げている。湯を注ぐ手の所作、器を傾ける角度、茶を啜る音——それらが未来に残る「日本らしさ」になるように。福寿園の茶は、皇室ゆかりの誇りを胸に、これからも世界の食卓に静かな緑を灯し続ける。

出典:福寿園


